2009年07月03日

クラシック音楽の話

村上春樹の長編「1Q84」が5月29日の全国発売以来100万部を突破したらしい。
村上春樹は自身が最も意識していた三島由紀夫(45歳没)の最後の長編「豊饒の海」を想定して「ねじまき鳥クロニクル」を書いたが、今回の「1Q84」は村上春樹が長編作家として生涯目標に据えていたドストエフスキー(60歳没)の傑作「カラマーゾフの兄弟」を想定して書かれている。つまり本作は今までの村上作品のなかでも最長になるということで、もちろん全2巻で完結するような話ではない。しかし「1Q84」はそのような作者の思い入れに反して傑作とは言い難い内容である。僕なんかは一読者として「ねじまき鳥クロニクル」以降の村上作品は、どうも同じところをグルグル回っているような印象を受けてしまうんだな (まあ相変わらずスラスラ読めて面白いんだけど)

ところで、村上春樹の「1Q84」効果で作中で紹介されたヤナーチェクのシンフォニエッタまで売れに売れているという (オーウェルの1984が売れているという話はあまり聞かない)
ヤナーチェクはクラシック音楽愛好家の間ではわりと有名な作曲家で、シンフォニエッタの他にも「イェヌーファ」や「利口な女狐の物語」といった代表作が数多くある。ちなみに僕が一番好きなヤナーチェク作品は「クロイツェル・ソナタ:ハーゲン弦楽四重奏団」だ。クロイツェル・ソナタは、不倫した妻を嫉妬のために殺す男というドロドロした内容の文学作品(トルストイ)だが、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲ではトルストイの小説に渦巻く「嫉妬」の感情がじつにうまく表現されている (スメタナ弦楽四重奏団のクロイツェル・ソナタも録音に目をつむれば◎)
今どきクラシック音楽を聴いている人なんて前世紀の遺物みたいに思われてしまうかもしれないけれど、何かのきっかけで今まで人々があまり興味をもたなかった文化が急に注目されることは結構ある。
クラシック音楽に関して言うと、盲目ピアニストの辻井伸行。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに日本人として初優勝し、マスコミにも一斉に取り上げられて、デビュー作がシンフォニエッタよろしくすごい勢いで売れているそうだ。ただ「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」というのが、そこまで権威あるコンクールなのかは疑問だし、マウリツィオ・ポリーニやクリスティアン・ツィマーマンといった世界的ピアニストを生んだ「ショパン国際ピアノコンクール」に比べると、やっぱりどうしても見劣りしてしまう。辻井伸行の演奏に関しても「彼の将来に期待します」というのが、現段階においては最も妥当な評価ではないだろうか。 ちなみにクリスティアン・ツィマーマンは小澤征爾指揮のもと「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番」で素晴らしい作品を残しているので、辻井伸行の「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番」と聴き比べてみるのも面白いだろう。

クラシック音楽は結局のところ個人の好みである。作曲家の好みもあれば、演奏者の好みもある。僕なんかはラフマニノフといったらクリスティアン・ツィマーマンのピアノ協奏曲第2番ばかり聴いていたせいもあり、はっきり言ってそれ以外の演奏はあまり知らない。マウリツィオ・ポリーニも僕が好きなピアニストで、ショパンのエチュードといったらアシュケナージを差し置いてポリーニの完璧な演奏だけが頭にこびりついているのである。

 
posted by 岩淵元紀 at 10:27 | 私生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

諸官庁への届け出

若いサラリーマンの方には自分の給与明細をみて「なんで俺の給料からはこんなに保険料やら税金やらが天引きされるんだよ」 と、納得がいかない人も多いのではないでしょうか。たとえば、中小企業の新卒初任給としては20万円前後が妥当と思いますが、その20万円から健康保険料、厚生年金、雇用保険、所得税などが引かれると、結局本人の手元に届くのは16〜7万程度になってしまいます。しかし、会社員は納税はもちろん社会保険も強制加入が義務付けられているので、いくら嫌だからといってやめるわけにはいきません。それに、もしそんな法律がなくなって「俺、社会保険やめたいです」なんていう社員が出てきたら、実は会社としてはとてもお得なんですよ。社会保険脱退を奨励する会社すらあるかもしれない。
先ほどの20万円を例にして言うと、平成21年現在で20万円の給料をもらうサラリーマンが天引きされる社会保険料(健康保険+厚生年金)は、23、550円になります。 でも、実際に支払っている社会保険料はこれの2倍の金額(47、100円)だということはご存知でしたか。実は給与明細から天引きされている保険料と言うのは負担額の半分で、もう半分は会社が負担してくれているんですね。だから若きサラリーマンと同様に、社会保険をやめたい会社だってたくさんあると思いますよ (実際、社会保険に加入していない会社も多いのですが)


会社を設立すると税務署や社会保険事務所など諸官庁に様々な書類を提出しなくてはいけません。 税金関連で言うと法人設立届出書、青色申告申請書、給与支払い事務所の開設届出書、その他諸々。こういった仕事は行政書士さん(税理士さん)にでも依頼すればもっとスムーズにやってくれたんだろうけれど、僕の場合は本やインターネットで調べて自分ひとりで処理してしまいました(そんなに難しくはなかった)
ところが、7月になっても所得税納付書やら源泉徴収税額表やらがうちの会社に届かなかったんです。5月に申請したのだから、普通なら6月くらいには何か反応があってもいいはず。何か僕の申請方法が間違っていたのかな?やっぱりプロに依頼すればよかったかな?…などと不安になってきたので、さっそく税務署に問い合わせに行きました。そしたら、税務署側でまだ処理してなかっただけということ。やれやれ。
また、会社で経理をしている方にはお馴染みの「算定基礎届」も7月頭に提出するものです。算定基礎届というのは(簡単に言うと)雇用している従業員の給料を記載して、月々支払う社会保険料を社会保険事務所に通知するといった書類で、毎年4月、5月、6月の給料をベースにしていることから7月の頭に提出するわけです。
社会保険料は会社が半分負担してくれると書きましたが、これを経営者視点で見ると、半分ではなくて全額負担しているような錯覚に襲われます。たとえば給料が100万円の場合は20万円近い社会保険料が発生して、会社と従業員の給料とでそれを半分ずつ負担するのですが、結局会社の通帳から20万円近く引かれているんですよ(笑) …まあ、そんなこんなでこれから新社会人になられる方も、給与明細から天引きされる保険料については「会社が結構負担してくれてるんだな」ということで、納得してほしいもんですな。

 

届け出(1) 届け出(2)
<本日、いろいろ提出してきた>



 
追記 : そういえば最近作った名刺。
といっても従業員を雇って本格的に始動するまでの繋ぎみたいなもので、会社のロゴマークも何もないいたってシンプルな名刺です。 9月に長期間の海外旅行を予定しているので、それが終わって一段落するまでは個人事業かなぁと思う。


名刺(仮)


 
posted by 岩淵元紀 at 16:23 | かけだし日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

経営者批判序説

哲学者のイマヌエル・カントは、他人から親切を施されることによって生じる「負債」を異様なまでに嫌悪しました。親切という行為は不平等を通じてのみ現れるものだと彼は言う。他人に親切を施すとき、あるいは他人に金銭を与えたりするとき、与える側にはある種の「優越感」が生まれます。街頭で募金をしたり、友人にご馳走したりする行為は、相手を喜ばす以前に自分でも「気持ちいい」ものでしょう。 そう、僕達のあらゆる言動には「自己利益のため」という下心が働いているのです。
これから僕は「経営者」という一部の人種について批判を始めますが、実をいうと僕自身が(かけだしとは言え)経営者なのです。経営者である人間が経営者についての批判をする。そこには僕なりの「利益」があるということを最初に明言しておきましょう。

ビジネスは経営者と社員の交換関係によって成り立っています。経営者に与えられた使命は「会社に利益を生みだすこと」です。それ以外には存在しません。利益とは差異性によってのみ発生するもので、そのような差異性を生み出す源泉として経営者は労働者を雇う必要があるのです。 ですから、ある意味で社員は自分の「労働力」を会社に売っているのであり、その交換報酬として給料を受け取っていると言えます。 (もちろん経営者と資本家とでは種類が違いますが、ややこしくしないために「経営者=資本家」として話を進めていきましょう)
経営者にとって社員は「労働力」という商品です。これから希望に満ちたビジネスの世界、新社会人生活への第一歩を踏もうとしている若者諸君にとって「労働力商品」などとするのは、あまりにも残酷で非人間的な形容かもしれませんが、会社の利益というのは何も売上に限ったことではなく、社内に和やかな雰囲気を与えてくれる女性社員の存在や、契約は取れないけれど前向きで一生懸命な若手社員の存在も、広い意味合いにおいては会社にとっての「利益」と言えるのです。だから社員が労働力商品というのは、単に会社にとって「あなたの存在が損か、得か」という程度の意味に過ぎません。 もちろん、労働者も血の通った人間ですから、その会社が嫌になれば“自分の労働力を売らない”という選択もできます。だからこそ、特定の社員が自社にとって有益と分かれば、会社から流出(転職)させないように経営者はありとあらゆる策を練るのです。


ひとつ例え話をしましょう。

山田君は新卒学生としてA社に入社して以来、営業の分野において数多くの業績をあげてきた「期待の新人」でした。彼の活躍ぶりは瞬く間に全社に知れ渡り、山田君はA社の将来にとってなくてはならない存在として経営陣からも注目を集めています。
そんな山田君が入社して3年、会社の幹部(社長あるいは取締役)が、彼に対してちょっとした世間話のようなものを持ちかけます。それは「結婚」の話題でした。いわく「山田君、君も早く身を固めたらどうだ、相手はいるんだろう」 だとか 「山田君、早く結婚してご両親を安心させてだな…」などなど。
山田君の親でもなく、親戚でもなく、少なくとも山田君のプライベートにおける道標でもない経営者諸氏は、なぜ彼に「結婚すること」をしつこく求めてくるのか。不思議な話です。山田君からすれば「そんなことアンタらには関係ねーだろ」といったところではないでしょうか。しかし「人間のあらゆる言動には下心が働いている」もの。山田君に結婚を奨めた経営者も「自分にとって利益がある」からこそ彼に結婚の話を持ちかけたのです。

男にとって「結婚」とは責任が生まれる儀式です。結婚をすると、男は配偶者としての妻を養っていかなくてはいけないし、あるいは子供が生まれれば子供も養っていかなくてはならない。たとえそのような状況から逃げたところで「養育費」は発生するだろう。ようするに“結婚”とは「安定した収入を常に得なくてはならない」という強迫観念を男性に植え付けるシステムなのです。
するとどうでしょうか。妻子を持った彼にとって、今勤めている会社がなくてはならない神の如き存在へと変貌するではありませんか。山田君は会社を「安定した収入」を与えてくれる信仰の対象として崇拝し、経営者の言いなり(企業の犬)と化す。守りの姿勢を決め込んだ彼は、少なくとも仕事を放り出して雲隠れするなどといった行動は起こさなくなるでしょう。
この事態を経営者側から見るとこうです。夢と希望に満ちた新社会人が会社に入社してくる。そして、彼が徐々に仕事を覚えて成長していく過程で、あるとき「お、こいつは将来使い物になりそうだな」と、経営者の目にとまる日がやってくる。すると経営者は「この若者を俺の言いなりに」あるいは「反抗しない使いやすい部下」にする装置として「結婚」の話を出してくる。妻子をもった男性社員ほど「扱いやすいもの」はないからです。経営者は男性社員に結婚を奨めることで企業の犬を量産し、まさしく「労働力商品」として、彼は自分の一生を会社に捧げなくてはならなくなってしまいます。

結婚とは男女が互いの幸福を誓って行う人生の選択であり、間違っても「アンタらの会社のため」にするようなものではないでしょう。 しかし、経営者は「君の将来を心配しているんだぞ」といった善人の皮をかぶって若者諸君に結婚を奨めてくる。この「経営者の独善」に希望があるとすれば、少なくとも結婚を奨められた男性は「会社から必要とされている」という点ですが、経営者は「我が社の利益のため」に結婚を奨めてくれたのであって、彼の人生を心から祝福してくれるのかは実に怪しい。
結婚はもちろん、実家で両親と生活している若者に「独り暮らし」を奨める経営者にも似たような欲望が働いていると言ってよいでしょう。社員を「我が社の給料なしでは生きていけないような状況」に追い込むことが大好きな生き物…、それが経営者なのです。

このような飼いならし行為は、会社内部に上下関係が存在して初めて成立するものですが、最後に経営者と管理職の違いについて言及しておきましょう。
僕が定義する管理職とは“資本家ではない社長以下”の全ての役職です。経営者は自分では指導しきれない社員を、自分の代わりに行ってくれるものとして管理職を社内に配置します。ですから、管理職にもある意味で「経営」という仕事が求められているわけです。しかし、果たして管理職が経営者の代わりをすることは可能なのか。管理職の仕事のひとつには「若手社員の育成」も含まれていますが、彼らは経営者がするように、心から自分以下の若手社員を育てることが出来るものなのでしょうか?
僕の答えはノーです。そもそも若手の成長は、管理職にとっては将来自分の地位を脅かす存在になるのではないかという心理が働いて、なかなか素直に歓迎できないものなのです。管理職に「経営者がするように」社員を育成したり、評価したりすることを望むのはお門違いと言えます。経営者は若手社員がどんなに成長したところで「今の地位を奪われる」心配はありません。だから優秀な社員には会社に根付いてほしいと考える。しかし、管理職からすると若手社員の成長は「自分の地位を奪われる」かもしれないという不安たりえるのです。
管理職は自分の部下達を評価する立場にあり、以前は彼らも「評価される側」に立っていた平社員であったわけです。彼らの中には、管理職に昇格して評価する側に立ったとたん、自分のことをなにやら神の啓示でも受けた特別な人間でもあるかのように錯覚してしまい、「あーだこーだ」と屁理屈を並べながら社員に点数をつけたがるような人間もいます。人が人に点数をつけること自体が不可能であるのに、それらの行為は彼にとって自分の尊厳を満たしてくれるこの上ない快感だからです。そして、ここに経営者と管理職との決定的な差異が明らかになってきます。

経営者と管理職の違いは何か。
それは“自分以下の社員に与えるものがあるか、ないか”の違いなのです。冒頭でビジネスとは経営者と社員との交換関係で成り立っていると書きましたが、経営者は会社の財産を自分の所有物と考えており、その中から必要な分だけを社員に「与えて」いる人間、ようするに人事や給料の査定を行ったりする取締役クラスの人間のみを言うのです。
一方で雇われている社員は給料を受け取ったら「労働」でお返ししなくてはいけませんね。しかし、彼らはもらった給料分だけピッタリと経営者に“お返し”できるわけではありません。経営者と社員の間で不可分なく行う交換を“等価交換”といいますが、ビジネスの現場において等価交換はまず不可能なのです。(この作業はこれこれいくら、と明確に定まった指標はないのだから)
経営者は社員に金銭を「贈与」する。そして社員は「本当に会社から与えられた分だけ自分は働いているのか?」と、常にプレッシャーを感じている。他人から親切を受けた弱者がある種の「屈辱感」を抱くように、社員はいつも経営者に対して「負い目」を感じているもので、その負債を返済するように彼らを駆り立てるのが労働なのです。
人類学者のマルセル・モースは、贈与(相手に何か贈り物をすること)には特殊な力が宿っていて、それは受け取った側に返礼を強いる効果があるものだと、有名な贈与論のなかで問題にしています。つまり、経営者は社員に給料と言う負債の烙印を押しつけ、債務者となった社員は、今度は自分が贈与すること(労働すること)で、はじめて身に帯びた負い目の呪いを“祓う”ことが出来るわけです。ですから、管理職が経営者たりえないのは、彼らが自分以下の社員達に対して実質的に贈与するものがないからとも言えます。
そして“会社から評価を得たい”と思っている限り、彼らは経営者になることは出来ません。管理職もまた、経営者から負債の烙印を押しつけられた債務者なのですから。

 
posted by 岩淵元紀 at 16:28 | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

新潟日帰り旅行

なんだか、むしょうに新鮮な魚介類が食べたくなったので新潟県の寺泊に行ってきました。平日だからか。海水浴場はほとんど無人だったけれど、寺泊の魚市場は(高齢者で)それなりに賑わっていましたね。田中角栄の日本列島改造政策により、経済的な繁栄を都市部から地方へ配分していくシステムが整備され、むしろ交通の便などに至っては全く問題のない成果をあげていると思うのですが、僕と同年代の若者が新潟や長野の文化に触れに来る…なんてことは、現状からは少し考えられません。新潟に限って言うと数年前はNHKの大河ドラマ「風林火山」の上杉謙信。そして現在は「天地人」の直江兼続効果もあって、大勢の若者が訪ねてきてもいいはずなのに、時間がとれないのか、あるいは地方文化に興味をなくしているのか…、これはちょっと残念なことですな。


寺泊(1) 寺泊(2)
<寺泊にて昼食>


春日山(1) 春日山(2)
<帰路に寄った春日山神社>


ズワイガニ
<お土産のズワイガニ>


 
日本海を眺め、潮風にうたれながら新鮮な魚介類を食べれたというだけで、寺泊まで来た甲斐があったというものです。これだけしっかりした滋味溢れる魚料理が作れるのも、やはり新潟と言う地方都市の力あってこそでしょう。

 
posted by 岩淵元紀 at 21:57 | 旅行記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

二極化する環境問題

周知の通り、アメリカにとってのイラク戦争は石油資源強奪のための戦争であった。
日本にとっても、EU諸国にとっても、もちろんアメリカ合衆国にとっても、石油は需要の高いエネルギー資源だが、その中にあって何より石油資源を必要としたのは、やはりアメリカという国ではなかったか。
日本は島国だから、石油資源の確保をほとんど輸入に頼るしかなかったけれど、そのような地政学的状況にあったからこそ、オイルショック以降の日本は、石油資源の浪費を抑制して省エネ型の経済社会へと転換していけたのだ。 しかし一方で、アメリカは依然として膨大な石油エネルギーの浪費型経済に停滞しており、だからこそ彼らはクウェートの石油を必要としたのだし、そのような意味で昨今流行の「エコ」や「クリーンエネルギー」といった環境運動に最も反対していたのが、実はアメリカだったということが出来るだろう。
そう、アメリカは地球環境保護運動に最も反対的な立場をとっていた国である。温室効果問題を例に挙げると、二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの排出により、海面が上昇したときに被害を受ける多くの国はベトナムやバングラデシュなど南側であり、アメリカのような北側はほとんど被害を受けない。あるいは受けたとしても合衆国南部の(一部の)州を放棄すればよいだけの話だと、彼らは開き直っていた。そのアメリカがここに来て、驚くべき変わり身の早さで「グリーン・ニューディール」などと言うのは何故だろう。もちろん、アメリカが動く理由はいつも決まって「お金のため」である。

新しいアメリカ合衆国大統領にバラク・オバマが就任すると、彼はイラクからの撤退を宣言して「New Energy for America」というビジョンを掲げ、石油浪費型の経済に見切りをつけようとした。 そして、クリーンエネルギーの思想は、オバマ大統領の詩的なスピーチによってその魅力が世界中に伝わった。このような状況下にあって、日本企業がエコビジネスに飛びつくことは当然の流れとも言える。「環境」と名のつくものであれば政府はたんまりと助成金をだしてくれるし、「未来の地球のために」というテーマは、実に心地よい響きとなって、我々の心を掴むものだ。ただし「環境にやさしい」ということに厳密的な定義は無いし、あるいはその言葉が、企業のキャッチフレーズになって独り歩きしているだけなのかもしれない。だから、この加熱する環境問題については、少し立ち止まって考えてみることも必要だ。


にっぽんサイコー! ( 田中康夫 × 浅田彰 )


浅田彰が冒頭で述べていることを要約するとこうだ。
環境保護運動をはじめると、そこには偽善と露悪の戦いが生まれる。 まず一方では「未来の地球のために」という美名に乗っかって、環境ビジネスを始める連中がいる。けれども、それは本心から地球のためなどではなく「連中自身の金儲け」のためという欲望が渦巻いている。
また一方では、それら偽善者の環境運動を痛烈に批判する連中がいる。しかし、批判する側の連中ときたら生産的なことはまるでなさないし「どうせ何をしても無駄だから」とか「放っておいても地球の気温というのは変動する」などと居直るだけだ。
こういった二項対立のみで物事を考えるのではなく、そうではない世界で適度に地球環境へ貢献していくことがスマートなやり方だと、浅田彰は述べている。
地球環境問題が人間社会にとって大きな課題であることに間違いない。かつての経済社会システムは、地球環境のそれと比べれば極めて小規模な問題に過ぎなかったのに対し、20世紀以降においては、地球環境のそれと比べて経済社会システムがあまりにも大きくなりすぎた。そして、このような問題が露呈してくるなかで、何らかの対策を講じようとする集団と何もしたがらない集団と言うのが現れる。ひと括りに言ってしまえば、それが「偽善と露悪」の戦いであった。90年代アメリカは少なくとも露悪的な立場にあったのが(昨今の金融危機の影響も受けて)お金のためのエコロジーという偽善的な立場をとるに至ったのである。

かつて、阪神大震災の時に、全国から被災地にたくさんの救援物資が送られてきました。ところがその中には、さしあたって需要のない古い布団や古着なども含まれていて、救援物資の受け入れ元の自治体が困惑し、よく考えて送ってほしい由の声明を発表したところ、善意で送っているのに、と逆に反発、抗議を受けたそうです。
…彼らは自らの善意に盤石の自信を持っているので、相手の被った迷惑にたいして、ほとんど認識しない、あるいは時に指摘をされると、自分は善かれと思ってやったのだ、と開き直る。
<悪の対話術:福田和也>


「あなたのためを思ってやったのだから」という理由があれば、全てが許されてしまうような偽善社会は確かにグロテスクだ。しかし、浅田彰が指摘したように、偽善者を嫌悪するあまりに極端な露悪主義に走ってしまうのも困りものである。
「気温が低下している地域もあり、温暖化は起きていない」 などと、地球温暖化に懐疑的な連中はどこにでもいる。しかし、エコロジーというのは結局のところ未来の問題なのだ。確かに、これこれこういう経緯で地球は温暖化しているんだという、はっきりとした仮説と立証は出来ていない。にもかかわらず、取り返しのつかないことになって後悔しないように、怪しいものはとりあえず自制しておこう…というスタイルが、不確実性に対する最も効果的な処方箋なのだ。

 
posted by 岩淵元紀 at 01:09 | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする